私の数少ない趣味として文章を書くことがある。もうこの趣味を初めて20年経つらしい。
そもそも小学生のころに初期投資ゼロで始められる創作活動として手を付けたのがすべてのキッカケだった。
当時はインターネット黎明期で、通信速度の関係もあり画像よりも文章のコミュニケーションがまだ主流の時代。そして印刷してイベントで配るよりもウェブ上で公開したほうがコストもかからず、より多くの人に見てもらえるといったメリットがあった。
書いているうちに時代は変わってゆき、画像をメインとしたコンテンツが隆盛を迎える。
絵が上手いほうがカッコイイかな、と中学生や高校生の頃に練習もしたが、それでもなお文章を書いている方が性に合っていると感じて書き続けた。
そうして今までずっと数年ごとの周期で書いたり筆を置いたりしている。社会人になってからは同人誌も作った。
自分が書いたものが本という形になるのは不思議な気持ちだった。今まで横書きのテキストデータでしか見たことない文章が紙に印刷されて目の前にあるのが少し気恥ずかしく、しかし誇らしくもあった。
コロナ禍になる直前まではずっと二次創作ばかりしていたのだが、誰かの反応を気にして作風を合わせることに疲れてしまい、書きたかった話を全て書き終えたタイミングで筆を置き、その時活動していたジャンルからは撤退した。
3年前に友人の手伝いとして参加した文学フリマで、久しぶりに創作物というモノを目にした。個々人の「こうしたい」という熱意や理想が形になったそれを見ると、私の中で枯れていた気持ちが徐々に蘇っていくのを感じた。
それからはまた筆をとり、定期的に何か書くことを趣味としている。これまでと違うのは二次創作ではなく本当に個人的な出来事を記しているということ。
最初のうちは自分のパーソナルな情報を文章にするのは小説と違って難しかったが、最近ようやく慣れてきたような気もしている。
先日、映像制作を生業とし、趣味としても続けている大学時代の後輩と久しぶりに話す機会があった。
「オンでもオフでも同じ事をするのは疲れないか」と私が尋ねたのがきっかけとなり、しばらく創作活動について互いの意見を交換する時間が続いた。
その中で、彼が「もう呪いみたいなモノかもしれない」とこぼした。なるほど、と私は思わず唸ってしまった。やめたくてもやめられず、離れたくてもまた近づいてしまう。確かに私もそんなことを繰り返しているので、呪いという表現はとてもしっくり来た。
「なぜ山」という略語が早押しクイズの世界ではスラングとして用いられている。
これは『「なぜ山に登るのか」という質問に対して「そこに山があるからだ」と答えたイギリスの登山家は誰?(A:ジョージ・マロリー)』という問題文が出題されたとき、「なぜ山」まで聞けば答えは高確率でジョージ・マロリーだと導き出せるセオリーを表している。
(当記事タイトルの最後に/が付いているのは、早押しクイズでは回答者がボタンを押した問題文の箇所に/を付けるのが慣例とされているからである)
この「そこに山があるからだ」の「山」というのはエベレストだという。ジョージ・マロリーは何度もエベレストに登り、その挑戦をなぜ続けるのかとニューヨーク・タイムズの記者に尋ねられ、その回答がこれだった。
記者はその熱意に「This is pure romance(純粋なロマンス)」とコメントを付けている。
私はこの「山」に創作活動を重ねていた。何をもってして登頂したと言えるのかは不明だが、書いている間の試行錯誤に対する苦しみや書き終えた後の達成感は登山に似ているところがある。
その繰り返しに疲れ、筆を置いて背を向けても、また「山」が視界に入るたび、その輝きに魅入られて吸い寄せられる。足を踏み入れたあとの産みの苦しみをわかっていても。
この情念をロマンスと形容してもいいのかどうかはわからないが、この先の人生でしばらくはこの呪いは解けそうにない。